現在手軽に入手できるちくま版正史「三国志」では陳寿の本文に加えて裴松之の注訳が併記されています。
陳寿が著した史書では必要最低限の事実と思しきものを集めた感があり、それに比べて裴松之の注は明らかに(自己がネタにしている資料でさえ)矛盾した記述や突っ込みを入れられるであろうネタを豊富に取り入れている感じがします。
併しながら、魏書の中にある「高貴郷公紀」においては、特に陳寿と裴松之の記述の関係が逆転しているという現象が垣間見えていると思います。
この「高貴郷公紀」で記されている曹髦(曹操の曾孫)の死について、陳寿の記述では西晋に対する気遣いからか、あくまで「皇太后に対する逆恨みから彼女を殺そうとして死んだ」という「西晋にとて都合の良い部分の羅列」であるのに対し、裴松之は「最後にできたものであるとはいえ、この事件の叙述においてはほぼ筋道が立っている」とした上でこの弑殺に関しての詳細(「漢晋春秋」の文言)を記していました。勿論、(他の紀伝と同様)他の説も載せていましたが。
陳寿の時代では書けなかった事が(100年以上経過した)裴松之の手によって(勿論、彼が引用した諸々の資料が前提にあるにせよ)三国時代、そして「三国志演義」の実質上の勝者と言える司馬昭&賈充の暗部が明るみにされる事を考えると、その時代その時代における歴史の叙述の難しさを感じさせます。